人は何のために生きているのか?



はじめににも軽く触れましたが、この疑問については誰しも一度は考えたことが有ることでしょう。

ですが残念ながら今の所、科学はこの問いには答えていません
或いは科学者の多くは、この問いの答えは科学の管轄外だと言うかもしれませんね。
むしろ哲学や宗教などの文系の世界の話だと思っているかもしれません。

でもここでは出来る所まで、科学的に考えてみましょう。
確かに人が生きる理由自体はわかないとしても、取り敢えず“生きることを是”だと受け入れてしまえば、科学的に説明できることが意外と多くあります。
この世界に生きたことのない人は居ないのだから、取り敢えず生きることを前提条件として受け入れてみましょうか。

生きることの定義は難しいですが、取り敢えず心臓が動いていて呼吸をしていれば生きているというのが現在の定義になると思います。
なので生きること自体については理由を問わずに受け入れるとすると、この問いはつまり

「人は何をするために生きているのか?」

という疑問に変換できると思います。

例えば囲碁や将棋で対局をするとしましょう。
ここで「何故将棋なんてするのか?」と問われると「何のために生きるのか?」と問われるのと同様に困ってしまいますが(笑)、取り敢えず理由は置いておいて将棋の対局をすることにします。
すると将棋というゲームをする時には、全ての駒の動かし方に理由が有るはずです。例えば、ここであの駒を取るためだとか、この駒を守るためだとか……。

ですがもっとメタレベルで考えるならば、将棋で対局をしているときのコマを動かす目的は全て“勝つこと”に収束します。
全ての手法や作戦は、あくまで勝つために行うものです。

よって「何故将棋をするのか?」という問いは置いておくとすると、将棋を指す目的は常に勝つことですね。
人が生きることを前提として受け入れるのは、将棋の対局をすることを前提として受け入れるのと同様です。

一旦、将棋の対局が始まったならば、その最終目的は”勝つこと”でした。
同様に一旦、人が生き始めてしまったならば、その“人生”というゲーム共通の目的が有るはずです。
それが人間の行動原理であり、人間の行動原理はただ一つの話に書いたとおり、幸福度を今よりも上げることなのですよ。
手法の是非は置いておいて、この原理は人類の誕生以来ずっと一貫しています。
テクノロジーの進歩や民主主義の発明なども、これを目指したものですね。

将棋の対局においては明確な終了がありますよね。
相手の王を取るか、自分の王が取られるかのどちらかで勝敗が決定し、対局は終了します。言うなれば、ゴールが有るわけです。

では人間のゴールとは何処で、一体何なのでしょうか?
これは極めて科学的、と言うよりも論理的な話ですが、ヒントは思わぬところに有るものなのです。


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