釈迦は何を悟ったのか(前編)


※ 本稿の内容は前編、後編共に極めて重要なものとなりますので、もし一度で理解できなくても諦めずに何度も読んで下さいね。

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仏教の世界にとどまらず、日常においても「悟った」という言葉が使われることがありますね。

因みに辞書によると、“悟る”とは以下の様に説明されています。
(以下はデジタル大辞泉より引用)

1 物事の真の意味を知る。はっきりと理解する。「芸の神髄を―・る」

2 隠されているもの、また自分の運命などについて、それと気づく。感づく。察知する。「危険を―・る」「言外の意を―・る」「失敗を―・られないようにする」「死期を―・る」

3 仏語。迷い・煩悩(ぼんのう)を去って生死を超えた永遠の真理を会得する。悟りを開く。

この様に日常においても使われる”悟り”という言葉ですが、本サイトに何度も登場している釈迦(シャカ)の悟りは“仏覚”と呼ばれ、特別なものとされています。
仏教の修行者の最終目的は悟ることであり、釈迦は記録に残る限り最も昔に悟りを開いた人だとされているようです。
そして仏教の世界では、この仏覚の悟りを開いた人のことを“仏陀(ブッダ)”と呼ぶようですね。

今回書く悟りとは日常的な意味で使われる悟りとは異なり、この仏教における悟りを指すものとします。
仏教の世界にとどまらず一般にも「釈迦は悟った」、「釈迦は悟りを開いた」と良く言われていますが、では釈迦は一体何を悟ったのか、つまり釈迦は一体”何を知ってしまったのか”についてはきっと明確な説明を聞いたことがない人が殆どでしょう。

またYouTube等ネットの世界でも自称「悟った」的なことを言っている人が時々居ますが、本当なのでしょうか?
今回はそんな釈迦の悟りの内容について、メタフェイスを使って説明してみましょう。

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この世界はコンピューターによって作られているフィクションだと書きましたね。
そしてそれを私に示唆したものが、量子力学とコンピューターの2大柱でした。

しかしながらなんと、まだ物理学もコンピューターも存在していない今から2600年も昔にそのことに気づいた人が居たのですよ。
その人物こそが “釈迦(シャカ)”なのです。

ここでアインシュタインの名言を1つ書きますね。
「またアインシュタインの言葉か」と思うかもしれませんが(笑)、アインシュタインには名言が多いのですよ。

「仏教は近代科学と両立可能な唯一の宗教である」

他にもニーチェのような著名な哲学者や心理学者らが同様のことを言っています。
またボーアなど量子力学を構築した物理学者らの中には、後に仏教や禅の世界を知ることで「東洋はこんなにも昔に既に量子力学を知っていたのか」と驚いた者が多く居たという話もあります。
因みに東洋思想に感動したボーアが太極図を家紋に取り入れたという有名なエピソードもあります。



図1:太極図

とにかく、それ程までに仏教は物理学との親和性が高いのですよ。

因みにここで書く仏教とは、仏教と釈迦の教えは別物?に書いたとおり日本で主流の仏教(大乗仏教)ではなく、釈迦のオリジナルの教えの事を指すので宜しくです。

私の考えるメタフェイスがあらゆる宗教の上位互換となるならば、まずは我々日本人に最も身近な仏教を融合することから始めてみようではありませんか。
それに記録に残る限り、そして私の知る限り釈迦が最も昔に”この世界と宇宙の真理”に気づいた人間ではないか?と考えていることも理由の一つです。

何故なら私には釈迦の言葉を聞けば聞くほどに、「もしもコンピューターも量子力学も存在しない時代にこの世界がVRである事を他人に説明しようと思ったら、きっとこうなるだろう」という内容に聞こえて仕方がないからです。

信じられないことですが釈迦は量子力学はおろか、科学でさえもまだ哲学と分かれる前で実質的に存在せず、当然コンピューターの“コ”の字もない時代に我々が認知している世界がVRであることに気づいたと思われます。
更に言うならこの時代はまだインドでゼロが発見されるよりも前なので、数学とて極めて未熟だったことでしょう。

しかもその結論に至った手法とは、座禅と瞑想だけだったそうです。釈迦は何の科学的な実験も数学的な証明もしていません。
つまり乱暴に言えば、”座って考えただけ”でこの結論に至ったことになります。
私は物理学やコンピューターから散々ヒントをもらっているので、にわかには信じられない話ですが……。

しかしながら釈迦も、この内容を他人に説明することにはかなり苦労したようです。
それは当然でしょう。2600年前の人たちにVRの説明をしろと言われたら、実際にそれらを使っている我々であっても困ってしまいますよね。
因みに始めは釈迦も「悟りの内容はあまりに高度であるため、他人に説明することなど不可能である」と言ったとされています。
ですが”ある者”に、それを人々に広めることが釈迦の役目だと説得されて考えを改めたとされています。

そこで釈迦は色々な概念を使って、この内容を説明したそうです。
例えば超弦理論の“ひも”のことを“空”という概念で説明したり、物理学の特徴から来るものである、この世界は万物が数学的に互いに影響を与え合って成り立っているという、バタフライ効果に代表されるような特徴を“縁起”という概念で説明したのだと思います。
実際に釈迦が生きていた時代の弟子の中には悟りを開いた人が何人か居たそうですが、そのエピソードからも釈迦の説明能力の高さがうかがえますね。

さて、題目に戻りましょう。“釈迦は何を悟ったのか?”という質問に対する答えは以下の様になるでしょう。

この世界が実はVR(コンピューターで作られているフィクション)であること。

“悟り”というと何となく精神的なものをイメージしますが、実際の悟りの内容というのは極めて科学的(当時は哲学)で論理的だとされています。
どこから、そしてどこまでが釈迦のオリジナルの教えなのかは分かりませんが、実際に仏教には一貫して「あらゆる物は幻の様な存在であって、実在はしていない」という様な教えがあります。

釈迦が具達的にどう言ったのかは知りませんが、これも正確に言うなら“実在していない”ではなく“空”なのでどちらとも言えないとなるでしょう。つまり”幻”という言葉がとてもしっくりきます。
これを現代の言葉で言うならば、文字通り“バーチャル”でしょうか。これも有るとも無いとも言いにくい(定義によって変わる)ものですね。
つまり”この世界は全てフィクションだ”という考え方自体は、実は全く突飛でもなければ真新しいものでもなく、大昔からあるものなのですよ。
しかも日本人にとって最も身近な宗教である仏教の教えなのです。

そしてその考えで行けば仏教はつまり、痛みも悲しみも苦しみも、そしてそれらの原因となっている出来事も物質的なものも”全ては実在していないフィクションである”と言っていることになるでしょう。

確かに本当にそう思うことが出来たなら、人間は苦から解放されるかもしれませんね。だって、苦の原因となるものは実は全てフィクションで実在していないのですから……。

言うなればこれは今まで悪夢を見ていただけで、夢から覚めればそれらが実は存在していなかったことに気づくのと同様でしょう。
ならば確かに、夢の中では存在している様に見えた悩みもストレスも消えるかもしれませんね。

でもそれだと、逆に嬉しいことや幸せなことも実は無かったことになってしまいますが……。

続く……。


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