宗教とは何なのか(後編)
続きです。
どんな言葉を使うかは宗教によって異なりますが、一般的な言葉で言うならば”真理を知ること”。
この目的を達成するために宗教が存在するのであり、その中の具体的な教えは方法論に過ぎないため細かい物語の真偽はさほど重要ではありません。目的を果たせるのであれば手段がどうであっても、そのルートは正解なのです。
そして私が考えていることは、そこに新しいルートを作ることです。
恐らく、ここまで私が言ってきた言葉は宗教を信じる人にはあまり響かないことでしょう。何故ならまだ頂上に立っていないため、ルートが複数有ることなど誰にも判らないからです。
そしてもし仮に何れかの宗教がいち早く登頂したとしても、他の宗教を信じる人はそれが頂上だとは認めない可能性が高いと私は考えています。何故なら自分の信じるルートと違うものを理解して受け入れることはとても困難だからです。
よって私が提案する新しいルートは、信仰にかかわらず現代人の誰もが信じ、納得出来るルートである必要があります。もしそのルートを通って登頂することが出来たなら、誰もがそれが頂上だと認めることが出来るルートです。
そしてそのルートこそが、人類の最大公約数の価値観である“科学”というルートなのですよ。
念のために言っておきますが、その新しいルートは既存の宗教を否定するものではありません。どちらかと言えば、肯定するものになるはずです。何しろ”目的地は同じ”なわけですからね。
そんな言葉は詭弁だと思いますか?
ではそれら一見相反するものに対してどのように辻褄を合わせるのか、簡単な例を書いておきましょう。
例えばある古い宗教でこの様に教えていたとしましょう。
“山を登るときには、コンパスと地図を必ず持って行くこと”
そして仮に、現代のベテラン登山家がこの様に言ったとしましょう。
“山を登るときには、GPSとGoogleマップを必ず持って行くこと”
さて、確かに双方の教えの言葉は異なりますが、現代のベテラン登山家の言葉は古い宗教の教えを否定していますか?
もし双方の言葉をメタレベルで捉えるならば、
“山を登るときには、方角が判る道具と登山ルートが判る道具を必ず持って行くこと”
となり、全く同じ事を言っていませんか?
GPSもGoogleマップも最近発明されたものなので、そんな物が古い宗教の教えの中に登場するはずはありません。
古い宗教の教えはその時代の人が理解しやすいように、その時代向けに書かれているだけなのですよ。
更に昔はテクノロジーのレベルが低いだけでなく学校も義務教育も無かったので、より大勢に伝わりやすい具体的で易しい言葉が選ばれたことでしょう。
宗教に於いても本当に重要なのは言葉自体ではなく、“何を言わんとしているのか”というメインメッセージの方です。
その意を捉えずに言葉自体の方を大事にすることを、“原理主義”と私は呼んでいます。因みに原理主義者はきっと我々とは別の山に登っているため、同じ場所(頂上)で合流することは出来ないと私は考えています。
よって原理主義者でなければ、上記のベテラン登山家の言葉は“古い宗教の教えがいかに正しかったか”を物語っていることになるはずです。
とても簡単に言うと、私が考えているのはこういうことです。
よって「宗教とは何なのか?」という問いに対する私の答えは、「山を登るために数多く存在するルートである」です。
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