民主主義の本来の意味とは?


民主主義が生まれたのは遙か昔のことです。現在の民主主義の正確な定義や解説についてはネットにいくらでも載っているので、知りたい方は調べてみてくださいね。

さて、ここで重要なことは民主主義自体が生まれたのはかなり昔だと言うことです。
一般に民主主義とは「一般国民が直接、もしくは間接的に(代理人を通して)政治を行うことであったり、選挙や多数決のことである」とする人が多そうですね。
しかしながらそれらはあくまで“手法”であり、方法論の話だと思います。そして上記のようにその手法が考えられたのは何百年も昔のことです。恐らくその当時にはその手法が最適だったのでしょう。

ですが方法論に溺れて本質を見失ってしまっては本末転倒です。
具体的な手法や方法論では無く、民主主義の根底にある基本理念やポリシーとは一体何なのでしょうか?
そして民主主義とは、一体何を目的としたシステムなのでしょう?

私は民主主義の根底にある理念とは、

“最大公約数の人々が最も幸福になるためのシステム”

であると考えています。これは目的にしても同様です。

民主主義が誕生した大昔の時代には、王様や貴族など一部の特権階級の人間が市民を虐げたり、重税を課して贅沢な暮らしをしたりしていました。これらの特権階級の人たちが、自分たちに都合の良い政治を行っていたわけですね。

そしてその時代には、ネットやコンピューターはもちろん、飛行機も新幹線もありませんでした。
よってその時代に最適なシステムは選挙であったり多数決であったりしたのでしょう。大多数を占める普通の国民が自ら政治を行えば、一部の特権階級の人のためではなく、自分たち一般国民のための政治が行えると考えたわけです。
そして王や貴族らの独裁的な政治と比べると、これは比較的上手くいきました。

ですがこの時代に作られた民主主義はどちらかというと、政治を行う人間の“能力”よりも“善悪”を重視している制度であると思われます。
確かに現代の民主主義では昔の独裁者のような、自己中心的な人間は選ばれないかもしれません。ですが無能な人間が選ばれることを防げるシステムでしょうか?
いえ、重要な職なので“無能でない”だけなら最適ではありません。例えば現在の民主主義は政治をする上で”最も有能な人間”が選ばれるシステムになっているでしょうか?

そもそも一般国民に、政治をする上で誰が最も有能で良い結果をもたらすかなど知る術はありません。
また医師や弁護士になるのとは異なり、立候補者に国家試験の合格が義務づけられているわけでもありません。
よってこれは、“最も有能な人間を選ぶシステム”からはかけ離れていると考えるべきでしょう。

更に言えば、有権者が無知で正しい政治家を選ぶ能力が無ければ、たとえ民主主義の手順が正しくても結果は最悪になることでしょう。
つまりこのケースでは、有権者は自分で自分の首を絞めることになるのです。

少し極端なことを言ってみましょう。
たとえ独裁政治であっても、その独裁者が上記の定義通り“一般国民の最大公約数が幸福になることを追求する”人物であれば、それも民主主義の理念に合致すると私は考えます。
更にその人物が非常に優秀であれば、現在の選挙を利用した民主主義よりも良い結果が出る可能性だって大いにあるはずです。
結果よりもプロセスを重視するのは人間の性なのかもしれませんが、これもまた真なのです。

それでも「必ず国民全員による選挙(多数決)で権力者を選ぶべきだ」と考える人もきっと多く居ることでしょう。私はそのような人のことを、“選挙原理主義者”と呼んでいます。

察しの通り、この言葉は“イスラム教原理主義者”“キリスト教原理主義者”をもじった物です。
イスラム教の経典であるコーランやキリスト教の教典である聖書は、何千年も昔に作られた物です。よってその中には、当時の時代に合った内容や例えが書かれていますね。
よって当然ながら、聖書の中にネットやスマホは出てきません(笑)。

私の友人が、あるクリスチャンのカナダ人女性とコカイン(麻薬の一種)について話していた時に、彼女はこんな事を言っていたそうです。
「コカインは聖書で禁止されていないから使っても良い」
と。

ええ、もちろん聖書が作られた時代にコカインなど存在していません。
私は彼女も一種のキリスト教原理主義者だと解釈しています。キリスト教原理主義とは、聖書の内容を時代背景などを考慮すること無く、現代に於いても一字一句正しいと捉えることだというのが私の解釈です。
これを砕いて言うと、聖書が本来言わんとしている理念や趣旨では無く、表面的な言葉を大切にするイメージでしょうか。

選挙原理主義の意味もこれと同様です。つまり民主主義の理念や趣旨、本来の目的では無く、”選挙という手法こそが最も重要で大切だ”と考えることです。

ちなみにもし民主主義の定義が、私が上記に書いたとおりならば、これは今までに書いてきた人間の本能である”幸福の追求”と極めて親和性が高くなります。つまり民主主義の定義自体が人間の本能と殆ど一致することでしょう。
政治の世界には理系のような決まった正解はないとは言いますが、人間の本能に基づいているのなら、これは多くの人が納得できる一つの正解ではないでしょうか?

よってそろそろ、民主主義の定義も選挙や多数決という方法論から上記の物に変えていきませんか?


さて、なぜ今回このようなことを書いたかというと、いずれ政治を行うのは人間ではなくAIになると私は予想しているからです。
当然、AIは選挙によって選ばれることはないでしょう。
ですがそのAIが誰よりも優秀であり、最大公約数の人々を幸福に出来るのであれば、それもまた民主主義の定義からは外れないと私は考えます。
つまり民主主義の理念だけはそのままにしても、手法は時代によって変わるべきなのです。
さもなくば、原理主義になってしまいますからね。


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