我々の社会はどこに向かっているのか?
人類が誕生した時期については諸説あるようですが、およそ数百万年前と言われているようですね。
とにかく大昔に、人類は他の霊長類と枝分かれして今日まで進化して来ました。
そして太古の石器時代から人類と他の動物とを分ける大きな違いの一つは、間違いなく“道具を使うかどうか”でしょう。
石器や火という道具の発明から、現在の飛行機やコンピューターやスマートフォンの発明に至るまで、人類は道具を発明し続けてきました。
人類の進歩、と言うか変化は常に一直線に進んでいるとは限りません。
例えば資本主義と社会主義のどちらが進んでいるのかについては意見が分かれることもありますね。
王様が居たほうが良いと思う人もいれば、居ないほうが良いと思う人もいるでしょう。
また民主主義がいいのか独裁がいいのかについても、昨今の中国とアメリカを見ていると良く分からなくなることもあるでしょう。
文化にしても、江戸時代の文化と現代の文化に上下をつけることも難しいはずです。
この様に文化や政治などについては過去からずっと真っ直ぐ進歩したというよりは、紆余曲折あったのだと思います。
ただし人類の歴史上、間違いなく時間と共に一直線に進歩しているものがあります。
それは、
”科学技術の進歩”
です。これについては明らかな優劣があるのです。科学技術の進歩は今までに多くの便利な道具を生み出してきました。
スマートフォンもしかりですが、ここでは新幹線や高層ビル、インターネットや高速道路などのインフラ寄りのものも人間の道具だと定義しましょう。
そして道具を作るための科学技術のことを特に、”テクノロジー”と呼ぶのが適切でしょう。
1000光年先にある星の内部構造が解明されることは科学の進歩ではありますが、テクノロジーの進歩とは言いませんからね。
さて、では“テクノロジーの進歩”の定義とは何だと思いますか? 実はこれについては明確に定義できるのです。
テクノロジーの進歩とは、すなわち
合理化のことである
と私は考えます。例えば、紙と鉛筆を用意して手紙を書いて切手を買って貼って郵便局に出して、配達のおじさんが自転車やバイクで宛先のポストに届ける。
という作業が今は、スマホから電子メールを送るだけで同じことが出来てしまうのです。
送信にかかる時間もあっという間。距離はいくら離れていても関係なく、地球の裏側のブラジルであっても1秒も掛からないほどです。また切手代もかかりません。エアメールなんて言葉が懐かしいです。しかも電子メールは家から一歩も出る必要がありませんね。
つまり電子メールは紙に書く手紙よりも合理的だと言えます。他の道具の例は挙げるまでもありませんね?
家電製品にしろ、交通手段にしろ、電子決済にしろ、昔と比べて現代はあらゆる面で合理的になっていると誰もが認めるでしょう。
では次に、合理化とはいったい何なのか? これはとても重要なことなので注意してくださいね。
“合理化とは、人間の行う工数を減らすことである”
と、私は定義しています。上記の電子メールの件もそうですが、工数を減らすとは人間がやらなければならない作業を、1つずつ減らしていくことです。
例えば洗濯機の進歩ならば、昔は2槽式洗濯機だったものが1槽になり、洗濯物をすすぐために移す手間がなくなりました。
更にボタンを押す回数もどんどん減っていって、最終的には全自動式洗濯機のように一度ボタンを押すだけで、水も洗剤も柔軟剤も自動的に入れ、洗濯、すすぎ、乾燥までを全てやってくれるようになりました。
電子ジャーにしても電子レンジにしてもお風呂を沸かすにしても、今の製品は大体ボタン一つで終わるはずです。
この様に人間のやる作業(工数)を減らすことを合理化と呼びます。工数には作業の数だけでなく時間も含まれます。
工数をわかり易い言葉で言えば、まあ”人間の労力”ですね。
インターネット(携帯を含む)回線の高速化も同様です。
高速化のおかげで今までは自転車を漕いでレンタルビデオ屋に行って、お目当てのものを探してレジでお金を払ってDVDを借りてこなければ見られなかった映画が、家から一歩も出ずにオンラインで視聴できてしまうのですから、これもまた人間の作業を減らす合理化なのです。
そしてテクノロジーの進歩は、合理化の方向にしか行かないのです。
実際に今さら5Gを止めて3Gや古いアナログ回線に戻そうなんて考える人はいませんよね? 飛行機や新幹線を廃止にして馬車や人力車に戻そうと考える人も居ないし、万が一居たとしてもマジョリティからの支持は得られないでしょう。つまり我々人間は、有史以来、合理化という名の道をずっと突き進んでいるわけです。
政治的、あるいは社会的、文化的イデオロギーについては人によって色々な意見の違いがありますが、テクノロジーの進歩、つまりこれらの合理化については誰も異を唱えません。
つまり、
合理化 = 便利 = 良いこと
なのです。ところが我々が正しいと信じて走るその道のゴール地点、つまり我々が最終的に目指す場所が何であるかについては、考える人は殆ど居ないのです。だからその道を進み続けることについて、誰も異を唱えないのでしょう。
ちなみに合理化の是非の判断を科学技術者に委ねてはいけません。彼らの頭脳にとって合理化は常に目指すべき目的であって、その良し悪しの判断については管轄外なのです。
でもそれが科学技術者の役割なので、これは仕方がないことです。
ええ分かります。時々クローン人間技術やゲノム編集などについては、倫理的、道徳的な是非が議論されますね(主に宗教的な理由で)。
ですが、飛行機やインターネットを廃止しようという人はいません。
テクノロジーの是非について議論されるものは、全体のごくごく一部だけなのです。
では話を戻してテクノロジーの進歩、つまり合理化という我々が歩む道のゴールとは何なのでしょうか?
これは簡単でしょう。つまり、最終的には全ての人がオギャーと生まれてから寿命で死ぬまでの間、ずっとベッドの上でゴロゴロしているだけで生きていけることなのです。
人間が行う工数を減らすという合理化のゴールは、つまりは人間が何もしなくて生きていけることなのです。
理屈上この状態が、人間が行う工数がゼロということですね。
テクノロジーの進歩という道を走る科学技術者たちは、そのゴールを目指して日夜研究開発をしているわけです。
「そんな事はありえない」「そんな事は技術的に絶対に不可能だ」と思う人もいるでしょう。
確かに現時点では不可能です。人間が生きていくためには食べ物や住居が必要です。そのためには働いてお金を稼がなければいけません。
働くためには言葉の読み書きも必要だし、仕事が出来る人間になるために学校に行って学んだり、頑張って受験勉強をして大学に行こうと考えるわけですからね。
生まれてから小学校に行き、中学、高校、大学まで行って学ぶのも、一言で言えば働いてお金を稼げる人間になるためです。
これは日本が近代化した明治時代からずっとそうでしょう。(昔は優秀な兵隊になることも目的だったでしょうが)
ではもしも本当に、人間が労働をしなくても生きていける様になったら?
そうなると働くどころか学校さえ必要ありませんね。せいぜい機械に命令するための、最低限の言葉を覚えるだけで良いし、ただ生きているだけなら生命維持に必要なことは全自動になっているのでそれさえ必要ないでしょう。
では実際にAIを搭載した機械が全ての労働をしてくれ、人間はゴロゴロ寝っ転がっているだけで寿命をまっとうするまで生きていける時代になったら人は何をするでしょう?
「そんな日が来るとしても、何百年も先だろう」と思うかもしれませんね。
でもその時代が、意外と近い未来だとしたならどうでしょう?
そしてもう一つの重要なテーマです。
もしも人間が働かなくて良い状態になったら、ずっと寝ていても暇でつまらないので人は必ず何かをやるだろうと思う人が多いでしょうね。ええ、確かに生まれてから100年間ベッドでゴロゴロしているのはさぞかし退屈で苦痛でしょう。
ならばその人達は趣味のことやスポーツをやるのでは? と考えると思います。
ですがここで人間の行動原理を思い出してください。趣味のことをやるのも全ては現状よりも幸福感を得るためでしたね。
つまり、ゴロゴロ寝ているという状態よりも幸福度が高い状態に行くために、人は趣味のことをするなどの行動をすることになります。
ではそこで、人工的にマックスの幸福感を薬で与えてしまったらどうなるでしょう?
例えば副作用のない覚せい剤などを使用して。これも薬で強制的に幸福に出来るのか に書いたとおりです。
そうなれば人間が行動する理由は、論理的に一切なくなります。
つまり生まれてから寿命で死ぬまでの100年間、ずっとベッドに寝転がって覚せい剤のような薬を打ち続けながら最大の幸福感を感じてずっと笑っていることになるでしょう。
生命維持のために必要なことはAI搭載機械が全てやってくれますので。
これがテクノロジーの進歩のゴールであり、合理化のゴールです。
つまりはこれが我々の歩む道のゴールなのですよ。科学技術者もビジネスマンもそのゴールに向かって日夜努力していることになります。
ここで私から問いかけます。
「それでいいのですか?」
「それが未来の子孫たちに残したい理想の社会なのですか?」
覚せい剤の件を除けば、実は今から350年以上前に、これと似たようなことを考えて危惧した人がいました。
物理学者であり哲学者でもあるパスカルです。(気圧の単位、ヘクトパスカルのパスカルさんです)
パスカルはいつの日かやがて、人類が飢餓を克服する日が来ることを予測していました。つまり、働かなくてもすべての人のお腹を満たすだけの食料(パイ)を作れる日が来るだろうと。
パスカルの時代にも、実は働かなくてもいい人がたくさんいました。それは王侯貴族たちです。
彼らはそれこそ生まれてから死ぬまで、働かなくても生きていける人たちでした。
ところが彼らはそれほど幸福感を感じていたわけではなく、むしろ虚無感や倦怠感と戦っていて、それを紛らわすために狩猟や賭博をしていたそうですね。当時は覚せい剤なんてものはありませんから。
ですが狩猟や賭博をしても結局はその場しのぎであり、結局最後には精神的スランプに陥るとパスカルは言っています。
その最終的な解決策としてパスカルが提案しているものが、信仰、宗教でした。
因みにパスカルの著書ではキリスト教を勧めているのですが、それがパスカルの時代には即していたのでしょう。
しかしながら現代では、キリスト教を信じる人の数は減る一方だそうですね。
現在までについて考えれば、先進国の多くはキリスト教国です。そして先進国とは、いうなれば上記のゴールに近い国です。
つまり、テクノロジーが進歩するほど人はどうやら宗教を信じなくなるようです。
そうなるとパスカルの提案も、問題を解決してくれる可能性は低そうですね。
ですがパスカルの考察自体は概ね正しいのではないかと私は考えています。
ただそれが、既存の宗教では難しいと言ったところでしょう。ならばいずれ、新しい信仰や宗教が求められる可能性がありますね。
これを今風に言うなら、宗教2.0といった感じでしょうか。
ただしこれは既存の宗教を否定するものではありませんし、そうするべきでもないでしょう。
恐らく最善な方法は、これも今風に言うならば、既存の宗教をアップデートすることが出来れば一番良い結果になるでしょう。
或いは理屈も何も放り出して、人間が何もしなくて生きていけるようになった未来には、上記のような薬物を使って幸福を得ることを肯定するのも選択肢の一つです。
でもこれについては肯定する人は少数派だと私は信じています。
もちろん私は反対だし、その様な未来を子孫に残したくありません。
でも何もせずに放っておけば、我々の進む先には確実にそのゴールが待っているのです。
そうなると何らかの解決策を考える必要が出てくるのですよ。
しかもそれはテクノロジーの進歩のスピードを考慮すると、比較的急ぐのです。
是非皆さんも色々考えてみて下さい。私の考える答えは今回は書きません。
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