神は乗り越えられない試練を与えない?
最近は仏教の話が多めになっているので、キリスト教の教えをメタフェイスで説明することにもチャレンジしてみましょうか。
キリスト教には“神は乗り越えられない試練を与えない”という教えがありますね。
(新約聖書の”コリントの信徒への手紙”。10章13節)
実際にテレビのドキュメンタリー番組などを見ていても、海外のキリスト教徒がこのセリフを引用している所をしばしば見ることがあると思います。
そもそも試練というのは程度の差はあれど、誰にだって訪れるものでしょう。もちろん私にも訪れました。ええ、何度も。
皆さんだってきっと同じだと思います。ではこの試練を我々はどう捉えたら良いのでしょうか?
そして本当に全ての試練は乗り越えることが出来るのでしょうか?
実際に乗り越えられない試練があるのかどうかは一旦置いておくとして、このキリスト教の教えをメタフェイスを使って説明してみましょう
このキリスト教の教えをメタフェイスの言葉で言うなら、
ゲームにはプレイヤーがクリアできないクエストは存在しない。
となるでしょう。”クエスト”というのはゲームに於いて冒険を進めるためにプレイヤーが達成しなければならない目標のような物で、通常はゲームをクリアするまでに複数存在します。
例えば何らかのパズルを解くことであったり決められた敵を倒すことであったり、または何らかのミッションを遂行することであったり……。
もしゲームの中に原理的に、構造的に絶対にクリアできないクエストが存在していたらゲームをクリアすることは絶対に不可能となるので、ゲームとして成り立ちません。これは言葉通りに“無理ゲー”という物でしょう。
なのでゲームは必ず何らかの方法でクリアできる仕組みになっていますね。
もしこの世界が壮大なVRゲームの様なものだとしたならば、我々はゲームにおけるプイレヤーであり我々に与えられる試練というのは、言うなればこのクエストの様な物だと考えられますね。
そして我々の世界におけるクエストというのは、解決しなければならない何らかの問題のことを指すと思われます。
なぜならクエストと言うからには、これは自分の意思で選んだものではなく、ゲームをクリアするための必須項目として強制的に与えられた物だと考えられるからです。
そしてキリスト教で言うところの神がメタフェイスに於けるマスタープログラマーに対応すると考えたならば、
マスタープログラマーはクリアできない無理ゲーは作らない
と言ったところでしょうか。
これでキリスト教の教えの一つをメタフェイスに融合できましたね。
さて、ここで終わっては多くの人が綺麗に腑落ちしないと思われるので、もう少し深く考えてみましょうか。
仮に原理的にクリアできないクエストは存在しないとして、我々にとって最も大事な問題は
それを自分がクリアできるかどうか
です。我々の知るゲームであっても、原理的にはクリアできる仕組みになっていてもそれを自分が出来るかが重要ですよね?
あなたの人生は何モード?にも少し書きましたが、そもそも我々に与えられる試練というのは人によって大きく異なります。
ゲームのように同じようにプレイしていても同じクエストが発生するわけではありません。現実世界に於いては一つとして完全に同じものは無く、人それぞれに異なるクエストが訪れます。
そして中にはそのクエスト、つまり試練に耐えられない、乗り越えられない人も多く居るのが現実です。
ではこれらはどう解釈したら良いのでしょうか?
ここから先は現時点ではまだ根拠の無い、かなりぶっ飛んだ私の解釈となりますので、それを了解した上で読みたい方だけ読んで下さいね。
ゲームのクエストと同様、おそらく全ての試練には原理的には乗り越えられる方法があるのではないかと私は考えています。
但し、一部の試練は乗り越えることが出来る人を著しく選ぶのです。
そしてゲームの初期設定で、自分の能力よりも難しいキャラクターを選んでしまった人が結果的に試練を乗り越えられないのではないでしょうか?
更にこれは私の直感ですが、きっと自分の能力でギリギリクリアできる難易度でプレイするのが一番面白いのではないでしょうか?
少なくとも我々の知るゲームに於いてはそうだと思われます。
ならばきっとクリアできるギリギリの難易度のキャラを選んでいる人が一番多いと考えられるでしょう。
これによりもたらされる結果をキリスト教的な言葉で言うならば、
「神は乗り越えられない試練を与えないケースが最も多い」
となるでしょう。ですが中には難易度設定でチャレンジしすぎて、結果的に乗り越えられない人も居るということです。
因みに輪廻転生を唱える宗教の多くでは「現世の行いによって来世で生まれ変わった時のキャラが決まる」的な教えをしていますが、それでは神が乗り越えられない試練を与えない話や、或いはメタフェイス風に言うならクリアできないプレイヤーが少ないことが上手く説明できません。
よってプレイヤーが演じるキャラクターというのはきっと何者かによって強制的に決められているのではなく、自分で選んでいるのではないか?と私は予想しています。
そして乙武さんや私はきっと、上級者向けのキャラクターを選んだのでしょう(笑)。
ええわかります。中には生まれてすぐに両親に熱湯をかけられて殺される赤ん坊も居ます。
ならば「こんなキャラは一体誰がクリアできるのか?」ときっと疑問に思う人も居ることでしょう。
これはかなり書くのを迷ったのですが、純粋に論理的に無矛盾なことだけを優先して答えるとするならば、おそらくその赤ん坊にはプイレヤーが居ません。つまり、心が宿っていないbot(コンピューターが演じているキャラ)ということになります。
ではなぜそんな誰も演じたがらないキャラクターがわざわざ存在しているのかといえば、この世界を論理的に無矛盾にするためというのが最大の理由だと思います。
ただしこの考え方は危険であるため、用いないでくださいね。「純粋に矛盾無く答える事だけを優先するとこうなる」というだけですから。
この件についてはまたいずれ詳しく書く予定なので、それまでお待ちください。
もちろん今回の話には現時点で明確な根拠などはありませんが、もしメタフェイスが正しいとしたらこんな事も導ける可能性がある、というお話です。
さて、皆さんは“そのあなた”というキャラクターをプレイすることを自分で選んだと思いますか?
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