釈迦は何を悟ったのか(後編)
さて、ここでとても重要な事を書いておきます。
それは、
“悟りの内容を知る事”と、実際に“悟りを開く事”は“全くの別物”である
という事です。悟りの内容を知る事が言葉による理解、または理論的な理解であるのに対し、実際に悟りを開くことを無理やり文章で説明するならば、「悟りの内容を肌感覚で理解し、実際にその様に世界を見ることが出来る状態」です。
「肌感覚で理解する」、「腑に落ちるような理解」等々、色々な表現があると思いますが、実際の悟りとは言語的な理解を超えた理解だと思って下さい。
これを分かりやすく例えるならば、“愛”に対する理解に似ているでしょう。
愛という言葉は辞書を引けば説明が載っているし、そもそも日常的に使われる言葉なので殆どの人が言語的な意味を理解はしている事でしょう。
ですが本当に人を愛した事がない人が辞書の言葉で説明されても、真の“愛”を本当に、肌感覚で理解する事は不可能ですよね?
なぜなら“愛”という感情は、言うまでもなく言語や理屈を超えた世界の話なので言葉での説明には限界があるのです。
実際に本気で異性を好きになったり、或いは自分の子どもが生まれて初めて真の“愛”を知る人も多いのではないでしょうか?
もう少し簡単な例を出すならば、、、例えばロシア語に堪能な日本人というのは殆ど居ないですよね?
ですが我々はロシア語なるものが存在していることを知っているし、それを話している人がどの地域に多く住んでいるのかも知っています。
その他にも少し学べばロシア語について色々と知ることが出来るし、辞書を使って翻訳することだって出来る様になることでしょう。
ですが実際にロシア語を母国語としている人がロシア語で会話をしている時に感じている情動や感じている世界を、そのまま理解することは不可能ですよね?
実際にその世界を感じるためには、自分がネイティブと同等レベルにロシア語をマスターする必要があるでしょう。
悟りもこれらと同様なので、そこは誤解のないようにして下さいね。
ただしです、、、言語や理屈による理解というのは何も無いのと比べれば、明らかに道しるべになる事もまた確かなのです。
ただでさえ肌感覚で理解するのが難しいのに、言語による理解も曖昧で漠然としていたらそれこそ”無理ゲー”です。
それに対しVR解釈では悟りの内容が漠然としておらず、抽象的でもなく、具体的且つ明瞭なのですからここは大きな違いでしょう。
私の知識では仏教の修行者の最終的な目的は悟りを開くことだと思われますが、実際に量子力学やVRが存在する現代の修行者は釈迦の時代と比べると遙かに恵まれていると思います。当然、悟りまでのハードルがかなり下がり、悟るまでの時間が圧倒的に短くなる事でしょう。
要するにVR解釈は悟りに辿り着くための超ショートカットを記しているのです。よってこれも最新の科学が便利な道具を作るためでなく、人間の本質的な部分に影響を与えるために使える例の一つとなるでしょう。
一つ余談を書いておきましょう。
仏教の世界では悟る直前の修行者の苦しみを以下の様に例えています。
「まるで熱い鉄球を飲み込んだらノドに詰まり、飲み込む事も吐き出す事も出来ないような状態である」
シュレディンガーの様な過去に真理に気づいたであろう先人達が気分が悪くなった様な話を私も何度か書きましたが、もしかしたらこれは、悟る直前の正しい心理状態なのかもしれませんね。
話を戻しましょう。
仏教の教えとVR仮説はあまりに相性が良いため、私も驚く事が多いです。
ここで更にVR解釈のポテンシャルを知るために、悟りについてもう少しだけ書いておきましょうか。
仏教では死ぬとみな”仏になる”としていますね。成仏するとは、文字通り“仏に成る”という意味ですし。
しかしながら希に生きながらにして成仏する人が居て、その人のことを仏教の世界では仏陀と呼ぶようです。仏陀の本来の意味とはサンスクリット語で“目覚めた人”、“覚醒した人”といったものでしたね。では彼らは一体何から目覚めたのでしょうか?
VR仮説の威力を知るために1つの利用例として、この仏教の教えをVR仮説で説明してみましょう。
VR仮説を使うと「人は死ぬと仏になる」とは、
「人は死ぬとVRゴーグルを外される」
という意味です。つまり、このフィクションの世界から強制的に抜けて今までの世界がVRだった事を知るから、全ての人は死ねば成仏する、つまり目覚める事が出来るわけです。
ところがごく希にまだVRゴーグルを付けてバーチャル(フィクション)の世界に居ながらにして、自分がVRの世界に居る事に気づく人が居るのです。
つまりこれは、生きたままの状態でVRの世界に居る事に気づいた人であり、別の言い方をすればVRゴーグルを付けたままの状態で目覚めた人です。
これが仏陀です。そしてこの仏陀を具体的にいうなら、上記の悟りを開いた人のことですね。
つまりVR仮説を使って説明するならば、仏陀とは生まれてからずっとVRゴーグルを付けたままの状態なのに、自分がVRゴーグルを付けている事に気づいた人のことを指します。
これならば仏教の教えである、死んだら誰もが皆が仏(目覚めた人)になる事も、また生きながらにして仏になるためには悟らなければならない事も綺麗に説明できますね。
つまり生きながらにして仏になるとは、ずっとVRの世界に居ながらにしてその世界がフィクションであることに気づく事です。
そして、
VRゴーグルを外した状態と同じ心の境地にて、俯瞰してこの世界を見ることが出来る人。
メタフェイスを使って説明すれば、これが仏陀(悟りを開いた人)です。そしてこの境地からこの世界を見ることを「メタレベルから世界を見る」と私は表現しており、メタフェイスの”メタ”はここから来ています。
釈迦が当時の人たちに語った内容を現代の言葉を使って説明するならば、きっとこうなるでしょう。
因みに仏教で伝えられている輪廻や天界などの他の言葉は、釈迦の言葉ではなく後の人たちが付け足した物だと私は考えています。
伝わるところによると、他の宗教の開祖とは異なり当の釈迦は布教することに対して極めて消極的だったとされています。
ただし来る者は拒まずというスタンスだったそうで、現代の仏教もその流れは受け継いでいる気がしますね。
長くなったので取り敢えず今回はこの辺にしておきますが、メタフェイスを使った仏教の解釈はいかがでしたか?
科学と宗教、双方の上位互換の概念になりそうな気がしませんか?
本記事から少しでもメタフェイスのポテンシャルを感じて頂けたなら幸いです。
仏教についてはまだ重要な話があるので、もう少し書く予定です。
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