なぜフィクションだと思ったのか


さて、では私がが考える真理について、その経緯を含めた解説に入って行きましょう。
まずは一つ目の真理である、“この世界は全てフィクションである”と考えるに至った経緯です。

先述の通り、1995年頃に私は”この世界は全てフィクションだ”という結論に至り、気分が悪くなって暫く思考を停止したと言いましたね。
ではなぜこの様な結論に至ったのかについて、書いて行きましょう。

私は子どもの頃からずっと、(きっと殆どの人がそうであるように)宇宙があるから物質が、つまり原子が存在し、その原子があるから太陽や地球が存在するのだと思っていました。
そして太陽や地球が存在したからこそ生物が生まれ、人間が生まれ、故に自分が生まれたのだと。

同様にして原子が地球や生物や自分の体を作っている、つまり原子(物質)が有るからこそ自分が存在するのだと考えていました。
そして原子によって人間の脳が作られ、その脳の活動によって心が生まれ、そして思考したり出来るのだと。
当時はこの様な考え方の事を”唯物論”と呼ぶかどうかは知らなくとも、です。
少なくとも学校ではこの様に習うし、きっと殆どの人はこんな認識ではありませんか?

よって自分が存在しているか、いないかに関係なく自分が認知しているこの世界は存在しているのであり、当然ながら自分の死後も何も変わることなくこの世界はそのまま存在しているのだと思っていました。

余談&昔の話ですが大学の入学式の直前のある日、私は何となく大学の入学案内のパンフレットを読んでいました。
するとパンフレットの最期の方に学長の挨拶が書かれていて、その中には「本学は唯物的な人間を好まない」という言葉が含まれていたのです。
当時、自分はまごうことなき唯物論者だと思っていた私はそれを読んで大いに悩みました。ええ、本気で。
自分はこの大学のポリシーには合わないと思ったのです。
そしてそのことを母に相談すると母は、「入学案内のそんな所は誰も読んでいない。そんなことよりも入学式用のネクタイを用意しなさい」 と言って笑いました(笑)。

話を戻しましょう。
しかしながら量子力学を学び、強い人間原理を知り、宇宙や原子(物質)が人間を作ったり存在たらしめているのではなく、実は”人間の心が物質や宇宙という概念を作っている”という考えに至りました。
つまりこれは、夢を見ているのと似ているでしょうか。
実在している様に見えても、夢の中に登場する物は全て人間の脳が作り出している幻影ですよね?

当然ながら夢に登場する物や出来事は全てが幻影、つまりフィクションです。ならば同様にして量子力学をそのまま受け入れるならば、我々が観測するこの世界や宇宙も実は人間の意識が作っているフィクションだと言えるのではないか?と考えたわけです。
これは論理的には極めて真っ当な考え方だと思いますし、それ以外の解釈の方が難しいと思いました。

或いはそもそも、およそ100年にわたって様々な実験により実証されてきた量子力学の方が実は間違っていて、人間の存在とは無関係な、客観的な宇宙や世界が存在する事が証明されるかです。
ですが物理学の流れを見ていると、どうやらその可能性は極めて低そうです。

しかしながら……、この世界は全て人間の意識が生み出している、そう思ってこの世界を見るとめちゃ気分が悪くなったのですよ。
正直に言って今までの(量子力学以前の古典物理的な)解釈の方がずっと感覚的にも経験的にも自然であり腑に落ちました。

ところが体調を崩して思考を止めて暫く経ってから、少しだけ自分の中で考え方が変わりました。
完全に受け入れる事なんて出来ないし、そもそもどうやって人間の意識が世界を作り出しているのかなど分からない事はたくさんありましたが、取り敢えずそれは置いておいて、何となくフィクションである事だけを受け入れてみたのです。

いつか詳しく書くかもしれませんが、この時の私は人生の谷底に居た時期でした。
そして当時の私は全てにおいて理屈でしかものを考える事が出来ない性格で、理屈が通っていない行動や目的に合わない行動は一切しないような“理屈完璧主義者”でした。ええ、まるで”論理マシーン”の様に機械的な考え方だったのです。
当時はこの考え方のせいで行き詰まり、自分で自分の首を絞め続けて苦しんでいたのですが、それに気づいていませんでした。

ですが“全てがフィクションだ”という結論に至ってからはまるで肩の荷が下りた様な気分になり、少しだけ気持ちが楽になりました。
どうせ自分の人生も全てはフィクションなのだから、論理的な正解の探求や合理的なことをするだけでなく、俗に楽しいとされている事をやってみようと思ったのです。
例えば喫煙をしてみたり、女の子と付き合ってみたり……。今までは時間の無駄だとか害しかないと思って避けていた事を敢えてしてみたのですよ。

すると全てが良い方向に行き始め、やがて谷底から脱出することができました。
この時は真理への思考は止めていたので“この世界は全てフィクションかもしれない?”程度の浅い認識でしたが、それでも気持ちが楽になって人生が好転した事だけは参考のために書いておきましょう。


さて、話がそれましたが、この世界がフィクションではない、つまり人間の存在とは関係なく客観的にこの宇宙や世界が実在するという主張と、量子力学が正しいという主張は相反するため両立は出来ません。これは天動説と地動説が両立できないように、です。

なので必ずどちらかを選ぶ必要があります。なのにどちらも捨てられないから、量子力学が不思議で誰にも理解できない様に見えるのですよ。
今までのいわゆる”解釈問題”も、無意識的にと言うか常識的にと言うか、これらを両立させようとするが故に生まれたものだと私は考えています。
その様はまるで、天動説が信じられていた時代に惑星の運動を説明するために不自然な理論が考えられたり、或いは相対性理論が生まれる前に光を伝える”エーテル”という媒質が信じられていた時代に、おかしな理論がたくさん出た事を思い出します。

そして物理学を学んだ私は、現時点では量子力学が正しいとしか思えないのですよ。最近ノーベル物理学賞を取った“量子もつれ”にしても、あらゆる実験は量子力学が正しい事を示唆しているのですから。
量子力学の唯一の問題は、人間が感情的に受け入れにくい事だけなのです。

つまり私は量子力学が正しいという考え方を導入したので、結果としてこの世界は人間の心に依存した存在である、つまり分かりやすい言葉で言うなら”フィクションである”という結論に至ったのです。

しかしながらそこにコンピューターをくっ付けるまでには、かなりの時間が掛かりました。
まあ、その間は他のことが忙しくて思考していなかったこともありますが、ちょうどその時期にコンピューターの性能が大幅に進化したことも重要な要因だったと思います。

続く。

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