真理から導く我々の存在理由


皆さん、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
元旦から一発目の記事を公開したいと思います。


さて、私の考える真理の仮説はきっと多くの人にとって突拍子もない内容だったと思います。

ですがその具体的な内容については後にじっくり書くので、一旦、思いっきり棚に上げておきましょう。
実を言うと次に何から書くのが一番良いのかと暫く迷ったのですが、一つの結論に至りました。

きっと多くの人にとって重要かつ興味のある問題はテクニカルなことではなく、仮にこの説が正しいとすると「一体それが何の役に立つのか?」「何か良い事があるのか?」「我々の生活が何か変わるのか?」といった事であるだろうと考えました。

例えば抱えている悩みや苦痛が消えたり……、たとえ直接的な役には立たなくとも、普通の人が興味を持つような何か良い事があるのでしょうか?
そしてもしVR仮説が正しいとするなら我々人類は、そして、自分はどう生きるべきなのでしょうか?

“人類史上最大のプロジェクト”だのと大風呂敷を広げておいて、本当にそれだけの価値があるのものを構築できるのでしょうか?
VR仮説が“科学を基礎とした世界的な信仰”などといった壮大なものの起点に果たしてなりうるのでしょうか?

物理や数学やコンピューターのテクニカルな話よりも、きっと多くの人はそちらの方に興味があるのではないでしょうか?
だって我々に何の影響も与えないのであれば、仮説が正しいかどうかを真剣に考える価値もないですからねっ。
純粋に私的な知識欲を満たすためだけならば、従来の科学のように一部の科学者なり科学が好きな人だけが勝手に考えていればいい話です。ええ、自己満の世界で。
当然、こんなウェブサイトを作る必要もありません。

つまり読者の皆さんがそもそもVR仮説に興味を持たないと、その先を読んでもらえないと考えたわけです。
そこで皆さんに少しでも興味を持って貰うためにこの仮説から一体何が導けるのか、それらのいくつかをはじめに羅列してみようと思います。
もちろんその内容も現時点では私が考えた仮説に過ぎませんが、宗教と比べればいくらかは科学的、もしくは論理的であるはずです。
(実際にはVR仮説は物理学だけでなく多くの科学技術の分野で様々な現象や法則を綺麗に説明できます)

ではメタフェイスのイントロとして、この仮説から何が導けるのかを実際にやってみるとしましょう。


1,もしこの宇宙がコンピューターによって作られているとしたら、この宇宙や人間の誕生は偶然によるものだとは考えにくく、おそらく作者(プログラマー)が居る。つまりこの宇宙と人間の存在には何らかの意図が働いている。

2,もしこの宇宙に作者が居るとしたら、この宇宙や人間が存在する理由も、そして自分が存在する理由も“無”ではないと考えられる。ならば、人間が生きる意味も“無”ではない。もしかしたら下らない理由かもしれないし、その中身までは分からないとしても、少なくとも“無”ではない。


まずはこの二点から考察してみましょう。


1について:


現在の科学の説明では ファインチューニングの話に書いたとおり、この宇宙の誕生も太陽や地球の誕生も、そして生物の誕生も人類の誕生も完全なる偶然の積み重ねとしています。
言うなれば我々が存在する理由は、単なる“事故”(by accident) です。

その偶然を要約するなら、今から約138億年前、何らかの量子力学的効果で無数に誕生した宇宙の中にたまたまファインチューニングされた奇跡的な物理法則を持つ宇宙があり、そこではたまたま反粒子より粒子の数の方が多かったために物質が残り、その宇宙はたまたま密度が濃すぎる事も薄すぎる事もなかったため、その中で多くの水素が集まって星が生まれ、星の中で核融合が起きて水素以外の元素が作られ、星が超新星爆発をすることで宇宙空間に元素が散らばり、更にそれらがまた集まって新しい恒星になったり地球のような多くの種類の元素を含む惑星になり、たまたま太陽という恒星の近くに地球という暑すぎも寒すぎもしない惑星が存在し、たまたまその中で有機物が集まり、たまたま有機物の中で雷による放電が起きて奇跡的にDNAが作られ、そのDNAからたまたま子孫を残すことが出来る生物が生まれ、それらが数限りない偶然の積み重ねによって進化してたまたま人間が生まれたと。

つまり我々人間の存在が完全なる偶然(事故)である以上、論理的に考えて我々の存在理由は、

”無い”

となるしかありません。
そして存在理由が無いのだから、生きる理由も論理的には、

”無い。強いて言うなら、本能だ”

となるでしょう。

これが現在の科学の説明なのです。うーむ、皆頑張って生きているのに何だかとても虚しい気分になりますよね……。
これではあまりに虚しすぎて、そりゃあ宗教でも作りたくもなるってものです。

しかしながら

作者が居るとなると話は全く別

です。
偶然の産物ではなく作者が居る時点で、そこには必ず何らかの意図があることになります。



2について:

意思を持った者が何かを作る時、たとえその目的が下らないものだったとしても、作る理由は“無”ではありません。
例えば我々が何かを作る時、プラモデルでも家でも音楽でも工業製品でも何でもいいですが、何らかの目的や理由がありますよね?
ならばこの宇宙や人間についても同様でしょう。

つまり作者が居る時点で、我々人間が存在する理由が“何も無いわけではない”と解釈できます。
そして生物である人間の存在に理由があるのなら、人間が生きる理由も“無”ではないと考えるのが自然です。
ええ、確かにその理由の中身までは分からないとしても、“無”ではないのです。
これは人類の存在についても、私の存在についても、そしてあなたの存在についても、です。

これはとても重要な事ではありませんか?
“無い”と“不可知”は全くの別物なので、自分の生きる理由が“何も無い”のと“有るけれど知る事が出来ない”のとでは天と地ほど異なるはずです。
誕生日プレゼントだって、”何も無い”のと”有るけど中身が分からない”のとでは全く気分が違いますよね?(笑)


さて、いかがでしたか? 因みに私はこの二点だけでも少し気分が変わりました。
だって自分が存在する理由、そして生きる意味が“何も無い”わけではないのですから。
よって「自分は何のために生きているのか?」という問いに、VR仮説は多少なりとも答えたことになりませんか?

もう一度言います。どんな人であっても“無”ではないのです。

続く……。


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